寝転がって気ままに… blog

まったく参考にならない雑口、余談でいきます。

平安朝を揺るがす承平・天慶の乱・・考

おはようございます。

 

天慶四年 941年 6月16日 朝廷は臣下の藤原忠文を征西大将軍に任命、

 

伊予の国など瀬戸内沿岸を荒らし大宰府を占拠していた藤原純友の征伐を

 

指示しました。藤原忠文軍は朝廷の正規軍であるし軍容も整っていたので

 

純友軍を徐々に追い詰め最後は敵将の純友を討ち反乱を収めました。

 

同じ頃 関東では平将門が私有地の争いが周辺に飛び火して大きな争乱

 

に拡がりそれが碁界を招いたすえ朝廷に反旗を翻します。一時は下野国、

 

常陸国、下総の一部などを抑えました。しかし 朝廷からの藤原秀郷を

 

大将とした追討軍に惨敗。  将門は討たれ 反乱は鎮圧されます。

 

どちらも国人、豪族の首領を担ぎ上げた反乱でしたがさすが朝廷からの

 

正規軍には太刀打ちできなかったようですね。

 

この二つの反乱を総して後年に承平・天慶の乱と呼んでいます。

 

背景としては奈良時代からの律令制度…中央集権制度の弱点である権力が

 

中央に集中し過ぎた結果、地方を顧みない政治に強い不満を持ったのが

 

ふたつの大きな反乱でした。その後、五十年ほどすると

 

『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』

 

 有名な藤原道長が太政大臣になり権力を掌握します。内政の最大の問題で

 

ある地方の国人、豪族の不満を抑えるために国人の子弟を朝廷の役職に就け

 

ていきます。そうすることで、国人と朝廷の貴族とのつながりを強め意思の

 

疎通を図るようになります。亦 各地の荘園の管理も任せて不平感を取り除

 

くようにしました。今までは中央からの一方的な命令だったのが地位をある

 

程度認めるようにしたことで国人たちは得心を得られたのでしょう。

 

人心術に長けた 藤原道長らしさが朝廷への不満分子を懐柔し中央集権制度

 

を維持させることに成功したようですね。地方の国人、豪族から見て朝廷の

 

正規軍が思ったより強かったことが抑制になったのかも知れませんよ。

 

 この道長の時代が藤原氏の全盛期で 今挙げた和歌を詠み上げるほど

 

本人はすべてにご満悦のようでした。

 

しかしそれから百年ほど経ちますと同じ境遇では国人たちの不満は飽き

 

足らずにいるところに朝廷内の紛争に巻き込まれ国人、豪族の代表となった

 

源氏と平氏の争乱を経て遂に武家の政権へと流れていきます。

 

朝廷が律令制度を全国に布告して(大宝律令701年)上意下達方式で政治と

 

いうよりは内部の権力争いや宮廷内で遊び呆けられたのは平安時代末期

 

までの五百年ほどでした。武家政権になってからも貴族は生き延びます

 

がそれまでの夢のような暮らしぶりは二度と戻って来ませんでしたね。